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まずは2つのことを書く。1つは岡山県、いまの津山市下河原に関すること、そうして、あと1つは奈良市杏に関してのことだ。
津山市下河原、そこに石碑が一基立っている。その碑文にはこうある。
「明治六年わが邸宅漠然として烏有に帰す。しこうして父兄はすなわち兇徒の刃に浸す…」
この部分からあとは紙面の都合上省略せざるをえないが、「烏有に帰す」とはこの場合凶徒たちによって火をかけられ、自宅が焼け落ちてしまったということ。碑文の元となった文章は1890(明23)年になったもので、漢詩文の体裁をとったものだった。作者の名は宰務(務台)正視、津川原村の指導者の家に生まれ育った人物だった。父の名は宰務喜一郎、彼はその3男だった。
1873(明治6)年、彼が6歳の時この村を3000人ともいう兇徒が襲った。正視の父や兄をはじめ、計18人が虐殺されていた。世にいう「解放令反対一揆」のことだ。隣家の長持のなかに隠れていて難を逃れた正視が、長ずるにおよんで高名な儒者などに学び結果書きあげたのが先の一文(「父母の墓に謁す」)だった。彼は後に郷里の奈義山麓に帰って悠ゆう自適の暮らしをしながらも、漢学の勉学を怠らず、その学識を慕う門人たちは数百を数えたという。
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2つ目は奈良市杏町に生まれ育った、ある社会学者のことだ。名前は米田庄太郎、生年は1873年。さきの美作一揆が起きた年だった。彼は1920年、京都帝国大学の社会学教授となった。講師就任いらい13年後の教授就任でもあり、その「遅さ」の裏に部落差別の介在が語られたりした人物でもあった。
だが事実はどうやらそうではなかったようだ。かの有名な喜田貞吉ですら、教授就任までは米田と同じ年月を要したという。そこに差別視がなかったというつもりはない。だが、それをうんぬんするよりは、彼が育てた弟子たちのなかにはきら星のごとき人びとがいたことを誇るべきだ。間違いなしに彼はこの国での社会学の創始者だった。
宰務や米田らのような存在は、程度の差こそあれ、どこの部落にもいたのだし、いまもなおいるに違いない。そして何より、彼や彼女を育てた両親や家族・村人たちが間違いなしに存在していた。社会的評価に値する人びとはどの部落にも、ごくあたり前に存在しつづけていた。あたり前のことだが、実はそういう条件を生かし切ることをできなくする要因が、部落の側にも存在してきたと考えてみる必要がある。
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社会学でいう「予言の自己成就」のことだ。部落を低位なものといつまでも位置づけ続けている限り、この堂どう巡りは解決しないのではないか。
文化を作りかえること、実はそのためにこそ「人権のまちづくり」が、いま必要とされているということなのだ。
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