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部落問題資料室

「教科書無償闘争(きょうかしょむしょうとうそう)」

 教科書・教育費無償の闘いは戦前からあり、戦後は各地で多様に進められたが、歴史的、しかも決定的な闘いは、1961年(昭和36)から始まる高知・長浜の教科書無償闘争である。高知市長浜・原は土佐湾にのぞむ半農半漁の部落である。仕事らしい仕事に恵まれず、母親たちの多くは失業対策事業に出て働いていた。当時の〈失対〉は1日働いて約300円。この母親たちは、毎年3月を迎えるのが辛かった。子どもたちに教科書を用意してやらなくてはならないからである。教科書代は小学校で当時約700円、中学校になると約1200円。〈失対〉で働く親たちにとっては、かなりの額であった。
 そのころ母親たちは、学校の教師と学習会をもっていた。憲法を学習している際に、憲法26条に〈すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする〉とあることを学び、権利意識にめざめた。母親たちは、学校の教師をはじめ、地域の民主団体や部落外の人々にも働きかけ、〈長浜・教科書をタダにする会〉を結成した。〈タダにする会〉は、集会を開き―署名活動にかかり、多くの団体にも働きかけた。部落解放同盟を核として社共両党・教職員組合・民主教育を守る会などが支持を決意した。高知市議会も、小・中学の教科書を無償にするよう内閣総理大臣や文部大臣あてに〈意見書〉を提出している。
 高知市教育委員会としては、憲法にも定められているので拒否できない。各団体も積極的に動く。交渉につづく交渉でつめられ、新学期までには教科書を無償で渡すと約束。ところが、新学期に入る直前に、約束をホゴにしてしまう。また交渉につぐ交渉。教委の総辞職。かわって市長があたり、約束。またホゴという状態が続いたとき、すでに新学期から1カ月が経過していた。子どもたちも教師も、教科書なし、プリントでともに闘う。だが、小・中学の教科書である。プリントでは授業が難しい。全校生徒のほぼ4分の1が無償になったのを機に、涙をのんで闘いを打ち切る。だが、翌年も再び闘いにたち上がる。
 この闘いには、部落大衆をはじめ、貧しい民衆の熱い要求がこもっていた。憲法の精神にも合致している。国会でもさすがに大きな問題であるとして取り上げられ、文部省は1963年(昭和38)12月に〈義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法津〉を成立させた。部落解放運動や教組の長い闘いが基礎となって、ついに、教科書無償が全国的に実現したのである。64年は小学校1~3年、65年は1~5年、66年には1~6年、さらに67~69年にかけて中学校1~3年の各学年へと順次枠を広げ、小・中学校全体が無償となった。
参) 全国解放教育研究会編『部落解放教育資料集成10巻』(明治図書、1980)

 

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