現在の社会では、差別を受けた場合に、差別した者に差別行為をやめさせたり被害者を救済する法的な手だてはきわめて不十分ですし、事件を二度と起こさないような社会にしていく道も開かれていません。
人権擁護行政を担当している法務省の人権擁護局や法務局の人権擁護委員は、差別事件がおきた場合に、「人権侵犯事件調査処理規程」にもとづいて啓発をおこなうだけで、差別行為をやめさせ、その背景まで取り組みを展開し、差別事件の再発を防止する機能をもっていません。
また、憲法で人権尊重・保障がとなえられていますが、法や制度の面では差別行為が野放しになっているのが現状です。
つまり、部落解放運動がなければ、部落出身者は、差別されても泣き寝入りするほかないのです。
糾弾は、部落の人々が、みずからの人権を守るために、差別をした人に抗議をし、反省を求める行為です。
そしてそのなかで、差別をした人と部落の人が差別事件の背景を明らかにし、その人が差別するようになった背景や差別をうみだす社会のいろいろな原因について掘り下げ、最終的には、差別を許さない人になってもらうための教育の場とすることが糾弾の目的です。
ひと口でいうと糾弾は、差別した人と、された人が、差別がなぜ今も存在しているのかということを明らかにし、ともに人間の尊厳に目覚めようとするものです。
糾弾会は、事前に、その差別事件について事実の確認と分析をおこない、どのように糾弾するのかという「糾弾要綱」を作成して、組織的におこなわれます。
組織的に糾弾会をおこなう理由は、差別した人を恫喝したり、威圧するためではありません。
その理由は、差別事件そのものは個人的であっても、部落の人たち全体の怒りを呼ぶからです。なぜなら、差別は、すべて当事者が部落出身者だからという理由でおきているからです。
また、差別される立場、権力をもたない立場の者は、集団的行為をとらなければ自分を守ることができない弱い立場にあります。現状では、差別事件をおこした人に対して、個人的に抗議をおこない、真の反省を促すことはひじょうに困難なことであり、抗議することさえできない場合もあるからです。
糾弾は組織的に行なわれることによって社会的にも認められ、差別した人の真の反省と差別された人たちの自覚を促し、差別を許さない集団がつくられるのです。
部落解放同盟は差別糾弾闘争の基本姿勢について、「糾弾には暴力、恫喝、揶揄は不要である、糾弾は差別者の態度にもよるが、一定の節度をもって行なうこと、人権侵害を許さない闘いは、同時に相手の人権もおかさないという立場を踏まえること」であると明確に述べています。
糾弾闘争について、一部に、糾弾を否定するキャンペーンや伝聞にもとづく間違った糾弾のイメージが存在するようですが、これらこそ部落に対する予断と偏見のあらわれであり、部落問題解決の大きな障壁となっています。
糾弾によって解放運動は大きな前進をとげてきました。法の名による差別もふくめ、広く社会に根強く張っている差別を後退させてきたのです。
今日では、教育、マスコミ、企業、宗教など各界で部落問題をはじめ人権問題への取り組みがなされていますが、大手企業が糾弾を受けた「部落地名総鑑」事件や世界宗教者会議における「町田差別発言」など、その多くが差別事件の反省を契機に取り組みをはじめたものであり、糾弾がなければ部落差別に気づかなかったかもしれません。
そして、また糾弾は、ただ部落のためだけでなく、日本の社会を良くすることに大きく貢献してきました。国家公務員の初級試験制度に、親の職業によって採否が左右されることを改めさせたり、戸籍の自由閲覧を禁止させたり、数々の成果をあげています。